DAWN

永井覚紀のコラム

僕は「5時」が好きだ。
時計の右下にいて、1日に二度やってくるあの「5時」が好きだ。
「AM5時」も「PM5時」も両方好きだ。
夏でも冬でも、鹿児島にいても北海道にいても、いままでもそしてこれからも「5時」が好きだ。

なぜならば「5時」はすごく曖昧な時間だからだ。

もちろん、電波時計のような、照準時子午線が関わってくるような、明確な「5:00」はある。
疑いようもなく鮮明に、1秒の誤差もなくぴったりと。

僕が言いたいのはその類の曖昧さではない。

朝方まで飲んで、始発で帰宅する時間。
早朝に起きて、始発で出勤する時間。
授業が終わり、帰路につく時間。
準備が終わり、街へ出る時間。

夜と朝が入れ替わり、昼と夜が入れ替わる。
進と退が入れ替わり、静と動が入れ替わる。

5時にはそういった入れ替わる瞬間を含んだ、助走区間のような曖昧さがある。
その曖昧さの中にあると、全ての目にする出来事は、どのようにでも捉えられることができる。
今目の前を通り過ぎたあの人は、はたして入れ替わり前なのか後なのか。
しっかり前を見据えて歩いていたから、きっと今から進むのだろう。
その後ろにいたあの人は、うなだれるように下を向いていたから、きっと今から休むのだろう。

どのようにでも捉えられる世界。
つまり、思いのままに世界を解釈することができる時間。
そんな5時。楽しさ溢れる空想の5時。

三文の得のためでもよし。
寝食忘れて尽き果てるもよし。

5時に目を凝らし、5時に耳をすませてほしい。

世界は入れ替えることができるのだ。